阪神・淡路大震災 ① 〜語り継がなければならない記憶

「神戸ルミナリエ」を知らない人は、今やほとんどいないのではないでしょうか?

でも、それが阪神・淡路大震災の犠牲者のための鎮魂の祈りをこめるとともに神戸の復興と再生への夢と希望を託したイルミネーションであることを知っている人は少ないでしょう。

その4年後には「神戸ルミナリエ」に似た電飾、「東京ミレナリオ」 が開催されるようになりました。



東京ミレナリオは、千代田区の丸の内界隈で行われていた祭典、「神戸ルミナリエ」の東京移植バージョンである』と、ウィキペディアにはありますが、そもそもその目的は違います。

こちらの電飾も神戸ルミナリエ同様、イタリア人のヴァレリオ・フェスティ(Valerio Festi)氏と神戸市在住の今岡寛和氏の共同作品ですが、こちらは、人々が夢や喜びとともに出会い・触れ合う東京の祝祭として1999年から開催されているもので、今は東京駅の復元工事で休止しているそうです。



1995・1・17



震災発生のこの日から丸14年を迎えました。

今年は週末と重なっているので一日中鎮魂の祈りが途絶えることはないでしょう。

あの時の我が街の惨状、そしてあの時の助け合った人とのつながり・・・14年も経てば、その街の風景からも、生活の中からも、ともすれば私たちの心の中からも、被災時の記憶は徐々に薄れていきます。



私たちが経験した未曾有の大被害、避難所で支えてくれたボランティアの人々、他府県から生活物資を送って下さった方々――この震災を経験していない人たちに、そしてこの震災を体験をしていない震災後に生まれた次の世代の子供たちに、色あせることなく風化させず記憶を甦らせて、命の重さを語り継いでいくことが私たちの義務であると思います。


記憶を甦らせる・・・そんな思いで、 私が地震の直後に皆さんに送った手紙(← クリック)を、もう一度読み返しました。



今年1月現在の阪神・淡路大震災の被害状況は――
死者6434人、行方不明者3人、重軽傷者4万3792人。
全壊家屋10万4906棟、半壊14万4274棟、一部損壊39万506棟。


14年前のこの日の犠牲者のご冥福を祈ります。

合掌。






写真:1枚目 2008.12.14撮影 神戸ルミナリエ
写真:2枚目 2009.1.17神戸新聞提供 神戸市中央区、東遊園地
 午前5時46分、震災発生時刻に合わせ、灯ろうの前で黙とうする人たち
写真:3枚目 2009.1.17神戸新聞提供 神戸市中央区、東遊園地
 「追悼の集い」であいさつする遺族代表ら
写真:4枚目 2009.1.17神戸新聞提供 神戸市中央区、東遊園地
 灯ろうの前で手を合わせる女性。涙を浮かべ、静かに灯ろうを見つめていた


大吉

今日はもう小正月

今頃までどこを彷徨っていたのでしょう?

いつもは遅くとも三ヶ日のうちに来る、お愚ちゃまの中学校の先生からの年賀状です。

こちらからの賀状が届いてから出したとしても、こんなに遅くはなりません。

今年は今頃になってやっと届きました。

以前ならすでにお年玉くじの抽選日です。

どこかに紛れていたのでしょうね、きっと。


見ると、先日のおみくじ年賀状じゃないけれど、これにも表におみくじシールが貼ってあり、「コインでけずって!」と書いてあります。



さっそくスクラッチすると――

これにも「大吉」の文字が現れました。

今どき、この手のおみくじシールが流行っているのでしょうかね。



それにしても、家内の中学時代の恩師は今はすでに齢75歳のおじいちゃん先生ですが、どこでこんなかわいいシールを見つけて来られたのでしょうか?なかなか遊び心がありますね。

私たちも負けずにがんばらなくっちゃ。



因みに、こちらは先日記事にしたおみくじ年賀状です。



城山三郎さんの妻への思いを綴った晩年の手帳

伝記・経済小説の第一人者として知られる直木賞作家城山三郎さんの、妻への思いを綴った晩年の手帳を神奈川県茅ケ崎市の仕事場で次女の井上紀子さんが遺品を整理中に見つけました。

見つかった市販の手帳は「落日焼ゆ」などの小説で知られ、2007年3月に79歳で死去した作家、城山三郎さんが奥さんの容子さんと出会った1951年の1冊と、晩年の1998年から2006年までの8冊ですが、1999年の手帳は見つかっていないようです。




城山さんは日記をつけずに、市販の手帳にスケジュールとともに、その右にあるメモ欄に日々の出来事や心境、俳句などを書きとめていたようです。

仕事や趣味のゴルフなどの記録に交じり、容子さんがガンのために先立った2000年2月には「容子、天国へ」という記述があり、「冴え返る 青いシグナル 妻は逝く」と妻への思いが滲む句が記されています。

その後は、「毎日のように雨、雨、雨。容子の死を悲しむように」、「久しぶりに夢でママに逢う」、「相変らず日に何度も『ママ!……』と話しかけている」、「スマートで若くなって、路傍の低い塀のようなところに腰掛けている。まるで僕を待っているように。励まし、慰めるかのように」と、夢に見たことも記されて、さらに2001年6月には「今後は容子のことを書く。ゆっくりと」などと妻への思いが記されています。

城山さん自身のことについては、亡くなる前年の2006年8月に「足よろめき 体調不良」と老境の日々を記し、10月には「ボケが烈しく、字を忘れ、家やホテルへ戻れなかったり。・・・(中略)・・・もう、とにかく先のこと、約束事、一切しないこと!」などと衰えを自覚する記述があるものの、同年12月には「もう、これからは楽しく、楽に、を最優先」と覚悟を決めたような記述もあります。

今年1月23日には、手帳の内容にエッセーなども加えた「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」も新潮社から発売される予定です。




一昨日(1月12日)には、テレビドラマで田村正和さんと富司純子さん(出会いから新婚時代は中村勘太郎さんと長澤まさみさん、次女の井上さんを檀れいさん)が演じるそうか、もう君はいないのか〜父が遺してくれた贈り物」がTBS系列で放映されました。

これは城山さんの次女井上紀子さんが城山さんの原稿をまとめ、昨年1月25日に単行本化された「そうか、もう君はいないのか」(新潮社刊 \1260)を八木康夫プロデューサーがドラマ化したものですが、実は昨年2月奥さんが買って来たこの本を八木さんが見つけて、「本のタイトルを見た瞬間、いいドラマになると直感」して、翌日には新潮社にドラマ化を申し入れたという経緯があります。

城山三郎さんと妻・容子さんとの出会いから別れまでを綴った感涙の回想録は夫婦の絆の素晴らしさ、かけがえのなさを描き出し、天真爛漫な妻とそれを慈しむ夫、純真な愛に満ちた夫婦の軌跡を切々と綴っています。




紀子さんは、「父の遺稿は意図的ではなく、純粋に書いたもの。だから読者に受け入れられたのかも。いろんな夫婦の形態があるが、みんなが求めているのは一つ。最後まで信頼し合うことではないでしょうか」と言います。

「そうか、もう君はいないのか」は城山さんがふと容子さんを思い出し、ぼそぼそと口にした言葉と紀子さんは語っています。


若き日の城山さんと容子さんのひょんな事からの出会い、父親の反対による容子さんからの一方的な別れの宣告、その後当時若者の間でブームとなっていたダンスホールでの再会・・・。

そして結婚、子育てを経てやがて二人切りの生活が始まり、最後にはガンを宣告された愛しい妻との永遠の別れ・・・。

このドラマを見た人たちは、城山さんが人生の宝物として慈しんだ日々を感涙の回想録として心に残す事でしょう。

これからの出会いを求めて胸をときめかせている若者たちにも、これから結婚して夫婦となる若い人たちにも、そして既に子育ても終わった熟年の夫婦たちにも、出会いから別れまで人生のそれぞれの段階において、純真な夫婦の「愛」 と 「絆」というものについて考えさせられるドラマであると思いました。

この世の中でただ1人「おい」と呼べるのは妻だけ・・・私たちも晩年は最後まで信頼し合える、こんな夫婦でありたいと願います。



 . . ●あらすじ(TBSホームページ〜「そうか、もう君はいないのか」より)
 作家の城山三郎田村正和)と妻の容子(富司純子)は海辺の街で穏やかな生活を送っていた。息子の有一(田中哲司)一家は米国で仕事をしているが、鎌倉に嫁いだ娘の紀子(檀れい)は何かといっては両親のもとにやってくる。

 三郎と容子がここ茅ヶ崎に移り住んだのは、昭和32年の大晦日。新人賞をもらったばかりの三郎は、「故郷の名古屋にいるとダメになる」と、わざわざ見知らぬ土地にやってきたのだった。夜逃げだと噂されながらも一家はこの地に馴染み、三郎は次々と小説を発表し続けた。
 
 そんなある日、平和な日々が破られる時がやってきた。体調が思わしくないと精密検査を受けた結果、容子の身体からガンが発見された。三郎はどんな方法でも試して欲しいと医師に望むが、容子は手術や抗がん剤を拒み、通院して治療したいと主張。
2ヶ月が過ぎ、このまま小康状態が続くのではと思われた矢先、容子が倒れ救急車で病院に運ばれる。このままだと一晩もつかどうかと医師の診断だったが、その翌日、奇跡的に容子の意識が回復する。

 それ以降、三郎は日に2回容子の病室に通い、二人で食事をするのが日課となった。このとき、容子から三郎との出会いの話を聞いた紀子は、両親が恋愛結婚だったことを初めて知り驚く…。

 当時22歳、一橋大学に通っていた三郎(中村勘太郎)は、名古屋の図書館で18歳の容子(長澤まさみ)と出会った。二人は急速に距離を縮めるが、容子は父から交際を反対され、三郎のもとから去っていった。その後、ひょんなことから再会した二人は、結婚に向けて同じ道を歩き始めることに…。





写真借用先:時事通信社NHK、TBS、新潮社


オバマ氏 大統領就任演説と20代の若手ライター

第44代米大統領の就任式がいよいよ1週間後に迫りました。

変革を唱えて米大統領選を制した民主党オバマ氏は1月20日に米史上初の黒人大統領に就任します。

イラク戦争サブプライムローンに端を発する金融危機で威信失墜した超大国を「変革」の御旗の下、再生できるでしょうか?

この日の就任式では、オバマ氏は連邦議会議事堂前で宣誓、その後就任演説をして現ブッシュ大統領から正式にバトンを受け継ぎます。 

就任式の後、ホワイトハウスまでの3kmを防弾仕様のリムジンに乗ってパレードをしますが、この就任式と祝賀パレードには史上空前の民衆がワシントンに押し寄せると推定され、その数は200万人とも300万人を超えるとも予測されています。

祝賀パレードの一般観覧チケット5000枚は発売後1分未満で完売となり、インターネットの競売サイトでは25ドルのチケットが300ドル以上で売買されているといいます。



話は変わりますが、今から遡ること5年前、民主党党大会で、無名の地方議員としてリハーサルをしていたオバマ氏に「重複する部分は削った方がいい」とアドバイスをした青年がいました。

このアドバイスが縁でこの青年は翌年上院議員となったオバマ氏のスタッフとなり、昨年のオバマ氏の大統領選での演説の主任スピーチライターとして大活躍をしました。

この青年の名前はジョン・ファブロー氏、2004年の民主党大統領候補になったケリー上院議員の陣営で修行中の当時23歳の大学出たての青年でした。

昨年8月の民主党大会の指名受諾演説では、オバマ氏は訴えたい内容を1時間かけてファブロー氏に説明、ファブロー氏はその場で初稿を書き上げオバマ氏と推敲の後、完成したのは本番数時間前というエピソードがあります。

オバマ氏は1月20日の大統領就任式で政権運営に向けた所信を表明しますが、この就任演説が15分か20分より長くならないようにと簡潔さを要求し、ファブロー氏はワシントンの演説現場を下見するなどしてイメージを膨らませているそうです。

4年に及ぶ二人の付き合いの中でオバマ氏の思考方法や言い回しを完全に掴んだファブロー氏は自分の役割を「大リーグの名バッターの打撃コーチのようなもの。演説のツボを心得たオバマ氏にアドバイスできる事はあまりない」と謙遜していますが、オバマ氏からは全幅の信頼が置かれているようです。

米史上初の黒人大統領となる就任式では、オバマ氏と若手ライターの二人三脚で作り上げた15〜20分の凝縮した演説が米国民の心をどれだけつかむ事が出来るのか、そして歴史に残る名演説として後世まで語り継がれるのか、大いに期待したいものです。

元記事:ワシントン共同他 写真:UPI=共同


残りえびす

昨日は残り戎でした。

一昨日は十日戎にお詣りに行く予定で出掛けましたが、途中で脱線してしまい福井県まで行ってしまいました。

そんなわけで、昨日はもう一度改めて仕切り直しました。


残り福を求めて・・・

戎宮総本山、西宮神社に参拝です。

残り戎のこの日、多分一昨日の本宮の人出よりははるかに少ないのだろうと思いますが、それでもこの人出です。


本殿まで連なる行列・・
本殿正面の人の波・・

御神酒所に並んで、えべっさんの福酒を押し戴く人たち・・
220kgの奉納本マグロにお賽銭を貼り付ける参拝客・・




福笹につける吉兆や熊手、箕を売るお店が何軒も連なります。


こちらは福娘が「ようお詣りいただきました」と言って手渡してくれる福笹の売り場。




残り福がいっぱい詰まった福笹に願いを込めて床の間の神棚の横に安置しました。

どうぞいい福が来ますように・・・。

家内安全、家庭円満、無病息災、商売繁盛、家門繁栄、子孫長久、災障消除、所縁吉祥・・・。








よりによってこんな寒い日に・・・

十日戎のお詣りに戎宮総本山、西宮神社へ行こう・・・・・と家を出たハズでした。

JRの駅でICOCAカードで改札を通った後「今は新快速電車が福井県敦賀まで乗り入れているんだよね」と言う話から、いつもの悪いクセ、「言ってみるべ」と言うことになりました。


車では冬に北陸方面へ行くことはありません。

理由は雪が怖いから・・・(笑)。

神戸市内でスノータイヤは先ず無用です。そんなわけでスタッドレスタイヤも持っていません。だから冬に車で雪のあるところや道路の凍結するところへは行けません。



JR芦屋駅から新快速電車に乗りました。

京都駅を過ぎるといつもの聞き慣れた駅名ではありません。

山科・・・大津京・・・比叡山坂本・・・雄琴温泉・・・堅田・・・。

電車は琵琶湖の西を走っています。

敦賀まで行くのに、米原経由の琵琶湖線だとばかり思っていたのですが、先ず京阪神以外で電車に乗ることのない私は湖西線回りもあるとは知りませんでした。いや、こちらの方が主流で本数も多いんですね。湖西線を走る方が敦賀までの乗車時間も短いそうです。

滋賀県を北上するに連れて、窓の外はだんだん雪景色に変わってきました。写真は古いケータイで撮した近江今津駅です。

そう言えば天気予報では、今日から寒波到来と言っていましたね。よりによってこんな日に行かなくても・・・と思っても、もうここまで来たら引き返すのも馬鹿らしいし、そのまま先へ進むことにしました。

どこの駅からだったかいつの間にか電車のドアも自分でドア横のボタンを押さないと開かなくなりました。いつも阪神間で乗ってる新快速電車の変わりように不思議さを感じたものでした。

車窓の非日常の景色や無人の駅を眺めながら、こんな鈍行電車で旅するのも楽しいものです。ただ、冬とはいえ温暖な神戸にいるときの軽装のままで出掛けたのが気になりましたが・・・。(笑)

芦屋駅を2時に出発して2時間あまり、4時16分に敦賀駅に着きました。

到着直前の電車のアナウンスでは敦賀に着くホームは5番線、同じホームの反対側の3番線に福井行きの普通電車が約30分後に入ると言っています。

このまま引き返すのも「何だかなぁ」と言うことで、いつもの武生の魚料理のお店「秀亭かねろく」さんまで向かうことにしました。

車掌さんは同じホームと言っていたけれど、5番線から3番線となると線路をまたいで隣のホームだろうと思っていたのですが、当然のことながら車掌さんにマチガイはありませんでした。(笑)

実はこんな駅初めて見たのですが、同じホームの手前と後ろでホームの番線が違うのです。 これにはいささか驚きました。この3番線の後ろの方は4番線だったのです。

所変われば・・・ですよね。でもどうして同じホームで2つの違った番線名がついているのでしょうか? 謎です。(笑)




さて、30分後に敦賀に入ってきた私たちが乗ろうとしている列車は白一色に青いラインの入った一風変わった形をしています。

1車両の両端に人1人がやっと通れる細いドアが・・・。

それも手動式で自分で開けなければいけません。




乗り込むと座席も変わっています。

そうです、昔は夜汽車として活躍したであろう寝台列車でした。

こんな列車に出くわすのもローカルの旅ならではですよね。

実は、いつも肌身離さず持っているカメラなのですが忘れてきたらしくありません。当然カメラケースに入っていると思っていたのですが、腰につけたカメラケースは空。

よりによってこんな一大イベント(??)の大事な時に忘れてしまい、仕方なくケータイで数枚、車窓の風景やらこの寝台車を撮っただけで終わりました。

まったくドジを絵に描いたようです。




敦賀駅を出発してまもなく車内の蛍光灯が数十秒にわたり突然消えました。

直流と交流の変電所の切替地点だったのでしょう。

この頃には窓の外はもう雪一色。

空もだんだんと宵闇が迫って来ていました。


長い杉津トンネルを抜けて今庄、南条を経て武生駅に到着した時刻は5時18分。この頃にはもう外は真っ暗になっていました。


この駅の改札口にはイコカのIC読み取り機がありません。

「現金でお支払い下さい。証明書を発行しますのでIC取扱駅で既に記録されている入場駅の取消をして下さい」ということでした。


「かねろく」さんには前もって電話を掛けてあったので、女将さんが駅まで車で迎えに来てくれていました。

お店では越前ガニのほか、私たちが今年初めて食べる一番豪華な食事と、マスターが隠し持っているとっておきのシリアルナンバー入りのヴィンテージオーナーズカスク「山崎1994」を堪能することができました。

情緒に溢れる風景と冬の越前のご馳走を思いがけず楽しんだローカル列車の旅もここで終点です。

いっそ泊まって行こうかとも迷いましたが、着替えはもとよりお愚ちゃまリップスティックしかお化粧道具を持っていないことからこの話はあっさり却下。


帰る時には案の定、時間ギリギリになってしまい、それを想定していたかのように前もってお店のほうで帰りの電車の乗車券と特急券を買ってくれていました。促されるままに飲食代も払わずに女将さんの車に乗り込んだものですから、飲食代と切符代を車の中でお支払いする始末でした。


後ろ髪を引かれながらも、無事8時44分発の武生駅最終の特急雷鳥48号に乗って新大阪駅まで、そしてその後新快速に乗り継いで帰り着いた時はちょうど11時でした。

やっぱり特急は速いわ。(笑)

でも、あの早い時間にお別れのご挨拶もそこそこにバタバタ帰ってくるのはどうも気ぜわしく物足りないし、お店にも忙しい思いをさせることから、今後は日帰りはやめようねという結論にいたりました。

かねろくさん、また今度は泊まりがけで行かせていただきますね。美味しいごちそうと越前ガニ、それととっておきのヴィンテージウィスキー、どうもごちそうさまでした。

今朝はまた女将さんからわざわざお電話を頂きました。あの後、雪は降り続け、今日は積もっていると言っておられました。