城山三郎さんの妻への思いを綴った晩年の手帳

伝記・経済小説の第一人者として知られる直木賞作家城山三郎さんの、妻への思いを綴った晩年の手帳を神奈川県茅ケ崎市の仕事場で次女の井上紀子さんが遺品を整理中に見つけました。

見つかった市販の手帳は「落日焼ゆ」などの小説で知られ、2007年3月に79歳で死去した作家、城山三郎さんが奥さんの容子さんと出会った1951年の1冊と、晩年の1998年から2006年までの8冊ですが、1999年の手帳は見つかっていないようです。




城山さんは日記をつけずに、市販の手帳にスケジュールとともに、その右にあるメモ欄に日々の出来事や心境、俳句などを書きとめていたようです。

仕事や趣味のゴルフなどの記録に交じり、容子さんがガンのために先立った2000年2月には「容子、天国へ」という記述があり、「冴え返る 青いシグナル 妻は逝く」と妻への思いが滲む句が記されています。

その後は、「毎日のように雨、雨、雨。容子の死を悲しむように」、「久しぶりに夢でママに逢う」、「相変らず日に何度も『ママ!……』と話しかけている」、「スマートで若くなって、路傍の低い塀のようなところに腰掛けている。まるで僕を待っているように。励まし、慰めるかのように」と、夢に見たことも記されて、さらに2001年6月には「今後は容子のことを書く。ゆっくりと」などと妻への思いが記されています。

城山さん自身のことについては、亡くなる前年の2006年8月に「足よろめき 体調不良」と老境の日々を記し、10月には「ボケが烈しく、字を忘れ、家やホテルへ戻れなかったり。・・・(中略)・・・もう、とにかく先のこと、約束事、一切しないこと!」などと衰えを自覚する記述があるものの、同年12月には「もう、これからは楽しく、楽に、を最優先」と覚悟を決めたような記述もあります。

今年1月23日には、手帳の内容にエッセーなども加えた「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」も新潮社から発売される予定です。




一昨日(1月12日)には、テレビドラマで田村正和さんと富司純子さん(出会いから新婚時代は中村勘太郎さんと長澤まさみさん、次女の井上さんを檀れいさん)が演じるそうか、もう君はいないのか〜父が遺してくれた贈り物」がTBS系列で放映されました。

これは城山さんの次女井上紀子さんが城山さんの原稿をまとめ、昨年1月25日に単行本化された「そうか、もう君はいないのか」(新潮社刊 \1260)を八木康夫プロデューサーがドラマ化したものですが、実は昨年2月奥さんが買って来たこの本を八木さんが見つけて、「本のタイトルを見た瞬間、いいドラマになると直感」して、翌日には新潮社にドラマ化を申し入れたという経緯があります。

城山三郎さんと妻・容子さんとの出会いから別れまでを綴った感涙の回想録は夫婦の絆の素晴らしさ、かけがえのなさを描き出し、天真爛漫な妻とそれを慈しむ夫、純真な愛に満ちた夫婦の軌跡を切々と綴っています。




紀子さんは、「父の遺稿は意図的ではなく、純粋に書いたもの。だから読者に受け入れられたのかも。いろんな夫婦の形態があるが、みんなが求めているのは一つ。最後まで信頼し合うことではないでしょうか」と言います。

「そうか、もう君はいないのか」は城山さんがふと容子さんを思い出し、ぼそぼそと口にした言葉と紀子さんは語っています。


若き日の城山さんと容子さんのひょんな事からの出会い、父親の反対による容子さんからの一方的な別れの宣告、その後当時若者の間でブームとなっていたダンスホールでの再会・・・。

そして結婚、子育てを経てやがて二人切りの生活が始まり、最後にはガンを宣告された愛しい妻との永遠の別れ・・・。

このドラマを見た人たちは、城山さんが人生の宝物として慈しんだ日々を感涙の回想録として心に残す事でしょう。

これからの出会いを求めて胸をときめかせている若者たちにも、これから結婚して夫婦となる若い人たちにも、そして既に子育ても終わった熟年の夫婦たちにも、出会いから別れまで人生のそれぞれの段階において、純真な夫婦の「愛」 と 「絆」というものについて考えさせられるドラマであると思いました。

この世の中でただ1人「おい」と呼べるのは妻だけ・・・私たちも晩年は最後まで信頼し合える、こんな夫婦でありたいと願います。



 . . ●あらすじ(TBSホームページ〜「そうか、もう君はいないのか」より)
 作家の城山三郎田村正和)と妻の容子(富司純子)は海辺の街で穏やかな生活を送っていた。息子の有一(田中哲司)一家は米国で仕事をしているが、鎌倉に嫁いだ娘の紀子(檀れい)は何かといっては両親のもとにやってくる。

 三郎と容子がここ茅ヶ崎に移り住んだのは、昭和32年の大晦日。新人賞をもらったばかりの三郎は、「故郷の名古屋にいるとダメになる」と、わざわざ見知らぬ土地にやってきたのだった。夜逃げだと噂されながらも一家はこの地に馴染み、三郎は次々と小説を発表し続けた。
 
 そんなある日、平和な日々が破られる時がやってきた。体調が思わしくないと精密検査を受けた結果、容子の身体からガンが発見された。三郎はどんな方法でも試して欲しいと医師に望むが、容子は手術や抗がん剤を拒み、通院して治療したいと主張。
2ヶ月が過ぎ、このまま小康状態が続くのではと思われた矢先、容子が倒れ救急車で病院に運ばれる。このままだと一晩もつかどうかと医師の診断だったが、その翌日、奇跡的に容子の意識が回復する。

 それ以降、三郎は日に2回容子の病室に通い、二人で食事をするのが日課となった。このとき、容子から三郎との出会いの話を聞いた紀子は、両親が恋愛結婚だったことを初めて知り驚く…。

 当時22歳、一橋大学に通っていた三郎(中村勘太郎)は、名古屋の図書館で18歳の容子(長澤まさみ)と出会った。二人は急速に距離を縮めるが、容子は父から交際を反対され、三郎のもとから去っていった。その後、ひょんなことから再会した二人は、結婚に向けて同じ道を歩き始めることに…。





写真借用先:時事通信社NHK、TBS、新潮社