時が滲む朝

文化革命の時に農村に下放されて懲罰の強制労働を強いられた父を持つ浩遠は、1988年に理想と使命感を胸に抱いて地方の大学に入学しました。

この頃中国では胡耀邦総書記が言論の自由化を推進し、国民からは「開明的指導者」として支持を集めていました。そして徐々に民主化運動の波にのみ込まれていく浩遠。

胡耀邦総書記の自由化運動に対して李鵬ら保守派は、中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発。1987年1月政治局拡大会議で訒小平らによって辞任を強要され事実上失脚させられてしまいます。

その2年後の1989年4月15日に胡は心筋梗塞を引き起こし帰らぬ人となりました。

胡の死去を受けて、北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行い、その後民主化を求めて天安門広場前で座り込みのストライキを始めます。

主人公の浩遠は、親友の志強とこの民主化運動に加わりますが、やがて装甲部隊が天安門広場に突入、そして運動は挫折してしまいます。

その後浩遠は大学を退学しますが、理想を捨てきれぬまま日本で新しい生活を営んでいく――




と、いう、向学心に燃えた学生時代から、天安門事件を経て五輪前夜に至る青春と挫折の日々を、漢詩や日本の詩、歌手尾崎豊さんの流行歌などを交え描き出したストーリーです。

21年前(1987年)に来日した中国人女性が、ゼロから日本語を勉強し日本語で書きあげたこの作品、 「時が滲む朝」 が第139回芥川賞受賞の快挙を成し遂げました。





中国ハルビン市生まれの芥川賞作家、楊逸(ヤン・イー)さんは大学4年生だった87年に来日。その後89年に勃発した天安門事件の直前に、「百年に一度の歴史的瞬間をこの目で見たい」と一時帰国しました。皿洗いなどをして日本語学校の学費を工面し、お茶の水女子大学を卒業後、今は中国語講師をしています。

楊さんはこの作品を、「第三者の手を介さず、自分の言葉で表現したい」と、たくましく生きる中国人をゼロから学んだ日本語を駆使して描きあげました。来日21年になる楊さんは今では日本語を日常的に話しておられるのでしょうが、所詮使い慣れた母国語ではなく、それがまして小説となるとその表現に大変なご苦労があったものと思われます。

この作品に使われている日本語には意味がずれている表現があったり、日本人が使わない珍しい言い回しもあるようですが、日本語を母国語としない人の表現を「つたない」と見るか「新しい表現」と見るか、神戸新聞の論評には、「後退している日本語表現が、新しい刺激を求めたのでしょう」と話す関西在住の中国人作家・エッセイスト、毛丹青さんのコメントと、「外国語として日本語を話す人たちの日本語を、日本社会がどう受け入れるかが問われている」と指摘している文芸評論家の榎本正樹さんのコメントがありました。

しかしながら、過去には在日韓国・朝鮮人による芥川賞受賞者はいましたが、今回は初めての日本語を母国語としない外国人作家による受賞ということですから、これからの日本の文学界に大いなる影響を及ぼすことに間違いはないでしょう。




受賞会見の席上で、好きな日本語は?と聞かれた楊さんは、『土踏まず』と答え、「『土踏まず』という表現はすごく笑えるし、すごい感動しました」と言って会場を笑いに包んだようです。









※写真をMSN産経ニュースさんからお借りしました