瀬崎晴夫氏の評伝の出版にエールを・・・

ご主人様から神戸新聞掲載記事のコピーをFAXで送って頂きました。
ご丁寧にありがとうございました。

杳さんが瀬崎氏の一枚の作品にご興味を持たれたことに端を発し、
20余年もの年月をかけてその足跡をたどられたということは、
杳さんがその絵のかもす遙遠な古里に余程取り憑かれてしまったと
いうことなのでしょうね。

単に瀬崎氏の絵画のファンであるか、或いは同郷のよしみだけでは
これだけのご研究はできなかったことでしょう。

ましてや三度にわたる渡欧ともなれば、ご主人様のご協力なしでも
実現できません。

また、評伝の出版は、芥川賞作家や直木賞作家のような華々しい
ものでもありませんが、瀬崎氏が毎日検挙に自然と向き合って
制作に打ち込んだ心と同じように、あくまでご自身の心にふつふつと
湧き起こる使命感のような何かの力が杳さんをこの評伝の制作に
打ち込ませているのでしょう。

杳さんのこのご努力によって、より多くの方々が瀬崎氏の生きざまを
知る手がかりとなるといいですね。

杳さんのこの評伝の出版に賭ける見えない強い力と一途な気持ちに
エールを送り、無事にご出版の栄をになわれますことを心よりお祈り
致します。

ところで、お父様のご容態がお悪いとお聞きしました。
どうぞ、お大事になさって下さいませ。


「瀬崎晴夫生誕100年 スウェーデンで記念展 〜紫色のモヤに魅せられ〜 」
 . . . に、継続記事を掲載(2007年10月17日付神戸新聞記事とも)



こちらは、8月29日に神戸新聞に掲載された評伝出版について書かれた記事です。
 . . . . ◆戦乱越えた日高の画家 瀬崎晴夫 没後30年
 . . . . . . . . . 神戸の平野さん評伝出版へ

 王立アカデミー会員に選ばれるなどスウェーデンで高く評価されながら、日本では謎に包まれている兵庫県日高町(現豊岡市)出身の洋画家・瀬崎晴夫(一九〇七-七七)の画業が、神戸市灘区の著述業、平野杳(よう)さん(57)の二十年来の調査で浮かび上がってきた。時代に翻弄(ほんろう)された前半生から北欧の自然に溶け込むような最期まで、丹念に足跡をたどった。平野さんは、北欧の雪景が描かれた晩年の作品に、瀬崎の古里・但馬の自然を重ね合わせる。(田中伸明)

 瀬崎は、旧制豊岡中(現豊岡高)、御影師範学校を経て、二七年に芦屋市の精道小の教諭に。二九年にパリに渡り、著名な公募展に入選を重ねたが、第二次大戦の戦乱を避け、四二年にスウェーデンに移った。移住後は一度も日本に帰ることなく、三十年前の八月二十八日に亡くなった。九月十二日は生誕から丸百年に当たる。
 平野さんは二十三年前、図書館で日高町史を閲覧していて、初めて同郷の画家・瀬崎を知った。一枚だけ掲載されていた、海岸風景を描いた作品の「寂しさ」にひかれ、足跡をたどり始めた。 関係者から入手した書簡や日記には、異国での波乱に富んだ生活がつづられていた。大戦下のパリでは、日本軍のため暗号解読に携わり、戦後のスウェーデンでは「スパイ」と疑われ、旅行先まで尾行された。共同通信社の通信員も務めた。
 平野さんは、瀬崎の晩年を追って九四年と二〇〇四年に計三度、スウェーデンを訪ねた。瀬崎の友人宅で、死の五カ月前に描かれた雪景に出合ったとき、感動で胸を締め付けられたという。
 「どんより暗く、じめじめして、それでいてどこか温かい但馬の冬景色そのものだった。彼は北欧の自然に古里を見たのではないか」
 パリ時代の明るい色彩に比べ、晩年の作品は淡く、渋い色調に変わっていく。「スウェーデンの色そのもの」とも「日本的」とも評された。平野さんは「毎日自然に謙虚に向き合い、死の直前まで制作に打ち込む毎日だった」とみる。
 四百字詰め原稿用紙で三百六十枚分の評伝にまとめ、出版を目指している。内容の一部を平野さんのホームページで紹介している。http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfbvj609/

画風確立知る手だてに 
 兵庫県立美術館の河崎晃一学芸員(近代日本美術史)の話

 瀬崎は欧州に永住した珍しい画家だが、県内の美術館でさえ追いきれていない。平野さんの研究は、瀬崎の透明な画風がどういう生きざまを経て確立されたのか、知る手がかりになる。

神戸新聞】 2007年8月29日