阪神大震災、1995年1月25日の手紙(第1信)

今日の神戸は雨模様です。

1995年1月17日の阪神大震災から12年目を迎えました。

神戸市民のなかでも一部の人の記憶からは風化しかけているこの大震災を、神戸市民ならせめてこの日くらいはしっかり想い出して、鎮魂の祈りを捧げてもらいたいものです。

12年前、東灘区の私のマンションは半壊、事務所の入っていた建物は全壊の被害を受けました。仕事の関係もあり、神戸から離れることを決め、数日後には浜松に疎開をしました。

その疎開先から親戚をはじめ、友人・知人に2通の手紙を書きました。 気持がまだ昂ぶっている間にと書き綴ったものです。非常に長い手紙ですが、その時の状況と私の気持を自分自身が改めて振り返ってみるためにも、手紙の原文をそのまま全文ブログに騰げることにしました。ただし、原文の中の個人名はすべて続柄で表してあります。



1995.1.25(第1信)
 身体が宙に浮くほどに恐ろしくズズーンと下から突き上げられて、続いて地獄の叫び声のようなゴォーッという音と共に振りちぎられるような激しい横揺れ。真っ暗闇の中で物が倒れ、ガラスやビンが割れて飛散する音。柱につかまっているのがやっとで何のなす術もない・・・・・悪夢としか言いようがありませんでした。

 長い激しい揺れがやっとおさまったところで灯りを探そうとするのですが、懐中電灯もマッチもローソクも家具や仏壇とともに何処かへ吹っ飛んでしまい、真っ暗闇の中で探すことすらできず、やっと見つかったのが10分か15分くらい経ってからでしょうか。灯りを点けて驚いたのは部屋の中に何一つとして元の位置に残っている物がなかったことです。

 この日、リビングの中央に母が寝ていました。実家が老朽化していたので、昨年の9月より建て替え工事に掛かっており、母はリビングのテーブルを脇に寄せてそこに布団を敷いて寝ていたのです。母の寝ていた場所はゾッとする光景でした。倒れてきた一間幅の両面ハッチや天井まであったオーディオラック、飾り棚、そしていくつものスピーカボックス、5Kgもある木彫りや10kg以上ある鉄のかたまりのようなアンダーウッドの英文タイプライター、30本ほどのウイスキーのボトル・・・それらに埋まっていたのです。しかしながら、幸いなことに横に寄せたテーブルの際に寝ていたため、百数十キロは優にある2m近い長さのハッチの一部がそのテーブルの端に引っ掛かり、僅かな三角形の隙間を作って母は身動きはできないまでも押しつぶされることもなく、がれきの中から引っ張り出すことが出来ました。全く奇跡としか言いようのない状態でした。

 そして、その間にも小さな揺れが続き恐怖の中で玄関に向かいましたが、マンションの1階部分の一番端である我が号室は異常な圧力やねじれが加わったのでしょうか、鋼鉄製の玄関扉は上からの重みでひずんでしまって全く開閉が出来なくなり、ご近所の方達の助けで外側から窓の格子を外してもらい、窓からかろうじて脱出できました。外に出てマンションの周りの木造の家がことごとく倒壊している様を見て、しばし茫然としたものでした。

 近くでは妹の家族が六甲アイランドに、そして姪夫婦が灘区に住んでいましたが、電話が通じず安否を問う術もなく、ただただ心配をするのみでした。また、現在建て替え中の実家の隣にある木造の建物の2階に私の事務所があり、心配で見に行ったところ案の定倒壊しており、1階部分に住んでおられた方達が何人か不幸にも崩れた建物の下に生き埋めになっていると聞かされました。夕方近くになってやっと妹たちと連絡が取れ、全員無事であることを確認しました。

 また、六甲アイランドのマンションのほうが去年建ったばかりで新しく、二次災害が避けられると言うことになり全員で移動することにして、ひとまず母とエスコート役の二女を送り込み、残りの4人は後から追いかける予定をしたのですが、考えてみると島(六甲アイランドは人工島です)への唯一の連絡橋が閉鎖されると本土へ戻ることが出来なくなるため、私たち4人は大事をとってこの日は避難所の小学校に残ることにしました。

 前日の夕飯からはじめての食事は60歳以上の年寄りと子どもにだけ小さなおにぎりが1個支給されただけでした。そしてまんじりともせぬ夜を余震が来るたびにビクビクしながら二人で1枚の救援毛布にくるまって一夜を明かしました。

 ところが18日の朝になって追い討ちをかけるように、今度は2万トンのLPGガスタンク基地が爆発するかも知れないので、もっと離れた山の手の避難所に移動するように勧告があり、六甲アイランドとの連絡橋もこの危険回避のため矢張り閉鎖されてしまいました。妹の家族や母たちも島内で別の安全な場所に避難させられてしまい、再び連絡がつかなくなりました。

 私たちも他の場所に移動を試みましたが、どこの避難所もすでにいっぱいで、あとは野宿をするしかなく、会社の得意先への連絡も気になっていたので電話の通じる大阪へ出ることにしました。ところがその途中、反対車線の神戸へ向かう車は遅々として進まず、例え一日大阪でホテルに泊まっても翌日神戸に帰ってくるのが不可能と判断し、急遽行き先を変更して浜松の親戚の家にひとまず身を寄せることにしました。後から分かったことですが、大阪のホテルや旅館はことごとく大手企業がいち早く社員やその家族のために予約をいれて押さえてしまっており、いずれにしても大阪で宿を見つけ泊まることは出来ないようでした。

 私と家内は20日の夜に、浜松から再び神戸に向かい、妹の家族、姪の家族、それに母と私の二女を連れて3台の車で浜松に戻ってきました。

 こちらには暫くの間お世話になり、余震がおさまった頃にまた神戸の近くでアパートでも探そうかと考えております。神戸じゅうが大被害を被った不幸の中で我が家では一人として怪我をした者もなく生きのびることが出来たことは本当に幸せであったと、ご先祖さま、神様、仏様に心より感謝している次第です。

 皆さまには、もっと早い時期に安否をお知らせする筈でございましたが、何かとバタバタしており電話帳も当初見当たらず、ご連絡が遅くなりましたこと、申し訳なくお詫びを申しあげますと共に何度もお電話を頂いたことであろうとご推察申しあげ、御礼申しあげます。

 また落ち着きましたら改めてご連絡をさせて頂きたく、取りあえず近況のご報告を申しあげます。

 いろいろご心配頂きましてありがとうございました。