阪神大震災、1995年2月17日の手紙(第2信)

上の(第1信)からの続きです
  そちらの方から先に読んで頂ければ光栄です


1995.2.17(第2信)
 1月18日の夜、浜松に着いた時はパジャマの上にセーターやコートを羽織った状態で長女は左右のソックスが揃っておらず、妻は片方しかソックスを履いていませんでした。私は両足をそれぞれ1ヵ所ずつガラスの破片で深く切っており、何か足が(血で)ヌルヌルするとは思っていたのですが地震の翌日になるまで痛みは全く感じませんでした。

 翌日はその傷と左膝の関節を痛めたらしく激痛が走り階段の上り下りをするのも苦労するほどでした。40時間履きっぱなしだった運動靴を浜松ではじめて脱いだ両足は怪我で膿んでいたせいもあっていくら洗っても二日間ほどムレた臭いが取れませんでした。

 お風呂に入れて頂き、食事を頂いて暖かい布団に寝かせて頂きましたが、寝ているときでも家の前の道路を走る車の振動にも敏感になり飛び起きたものでした。

 一夜明けてお世話になっている親戚の近くに住む方々から下着上着類の差し入れを頂き、やっと着のみ着のままから解放されました。

 一方六甲アイランドではLPGガスタンクの爆発の危険性もなくなり、18日の夜には妹の家族とそのご両親、それに私の母と次女も38階建て高層マンションの26階部分の自室に戻って参りました。

 実は地震発生の時、義弟はいつもなら阪神高速湾岸線を走って大阪へ向かっている途中だったのですが、この日に限ってたまたま20分早く起きて大阪へ向かったために大阪に着いた時点で地震に遭い、高速道路上での災害は奇跡的に免れました。彼はこの日一旦帰宅はしたのですが、翌朝早くまた大阪湾の水先人(外国船パイロット)の仕事に出かけてしまい、その後のガスタンク爆発避難騒ぎで橋が閉鎖され島へ戻られなくなっておりました。

 島に残っていたのは、妹の家族は、妹と二女、三女、長男、それと義弟のご両親の6人で、我が家から避難した私の二女と母の2人、合計8人でした。年寄り以外の5人でエレベーターの動かない高層ビルの26階の自室から歩いて老人3人を島の外れにある避難所まで連れて行き、忘れ物があったと言ってはまた戻り、避難所が寒いと言って毛布を取りに帰り、避難解除でまた老人を連れて26階まで戻り・・・と、大変だったようです。特に長男はバスケット部のキャプテンで練習で鍛えた体にものを言わせて、その後の水汲みを含め、この日は7〜8回もこの長い階段を往復したそうです。老人3人も26階までの階段を一段一段ゆっくりと下りたり上がったりで、さぞかし大変だったことだと思います。

 もう一組、JR灘駅の真ん前の市営住宅9階に新居を構えていた姪(妹の家の長女)夫婦と生後3ヵ月の赤ちゃんの3人は、地震直後に「避難している」と妹の家に連絡があっただけで、無事は確認できたもののその後の様子が全然分からず乳のみ児を抱えていただけに案じていましたが、20日に元気に妹の家に帰って参りました。因みに姪の夫のご実家も東灘区にありましたが全員無事との報せを受けました。

 浜松組の4人(私・妻・長女・長男)は一夜明けた19日から20日にかけて一番気になっていた会社関係の取引先と親戚に無事であることと状況の説明、現在の避難場所等の連絡をするため、四六時中電話器を持ち続けておりました。この2日間神戸ではどうすることもできなかった電話での連絡が自由にできる幸せを痛切に感じた次第です。

 妹の家と連絡がついた後、浜松から神戸の事務所の整理方々、母と二女を迎えに行く話をして、その時に妹の家族、姪の家族も一緒に浜松へ疎開をするように勧めました。妹の家では毎日26階まで水を運ばなければならない大変さがあり、姪の家庭には生後3ヵ月の乳のみ児がいることで、ガスは無理だとしてもせめて電気と水のライフラインが供給されるまででも浜松に疎開した方が良いと判断したためでした。
 
 20日の深夜、長女と長男を残して妻と私は二人で浜松を出発、神戸に向かいました。途中西宮市の廃墟と化した街の裏道を午前4時すぎに通過したときに、妻はこの辺りで亡くなられた人たちの霊が見えるようで異様な雰囲気に身の毛がよだち寒気を感じると言って震えていました。

 東灘区の我が家に着いて窓からマンションの中に入り、相変わらずモノがひっくり返って散らかっている状態にウンザリしながら、取りあえず子供たちに頼まれた当座の着替えとコンタクトレンズの洗浄器一式、それに住所録等を探し出して持ってきました。それでも長女の手帳など一部のものはどうしても見つかりませんでした。実はこの時吹っ飛んでいた電話器を見つけて線を繋いだのですが、つなぐと同時に安否を気遣ってくれる電話が、地震からもう5日も経つというのに次から次へと入ってきて電話をおく間もありませんでした。

 夜が明けてきてから自宅を後にして事務所の片づけに向かいましたが、前日の20日に自衛隊員が30人くらい来て、事務所のある建物の下敷きになっている方達の遺体をガレキの中から掘り出したということで2階部分の私の事務所の大きな備品は自衛隊の方達が表に運びだしてありました。それらの事務器の一部を除いてまだ室内にあるものも含め、ほとんどが使い物になりそうになく、また散らばった大事な書類等もとても探し出せる状態ではありませんでした。それでも一生懸命拾い集め片づけましたが、果たしてコンピュータやファックス等はうごくのでしょうか。データを入れた大事なフロッピーは、それ自体も探し出すことはできませんでしたし、仮に見つかったとしても泥まみれで使い物にならないことでしょう。自衛隊員の運び出してくれた一部の机やロッカー、書架等のスチール製品も歪んでしまって使い物にならず、購入してまだ日が浅い大型3ドア冷蔵庫も真ん中の扉が外れて吹っ飛んでおり、修理のしようもない状態でした。

 その頃前の道路を行ったり来たりしている連中が5〜6人いることに気がつきました。私たちを含め倒れた建物から家財を運び出している姿を単に眺めているわけではなく、それらを物色し品定めをしているのがありありと分かるのです。取りあえず運び出したものを、まだ鍵もついていない新築途中の建物の奥の見えないところに隠すように片づけておいて、通りの反対側で倒壊した建物から家具類を運び出しているお向かいのご主人にも、目つきの悪い連中がウロウロしていることを伝え注意を促しました。彼は今夜はこの道路に車を駐めて犬に見張り番をさせて車中で寝ると言っておりました。聞くところによると組織的な窃盗団が入ってきており、数人グループで昼間物色をしておいて夜になってからトラックを乗り付けて持ち去るらしいです。罹災し、鍵をかけることもできない倒壊した建物から盗むなんて絶対に許せない。刑法でもそういう火事場泥棒には通常の窃盗罪ではなく極刑に処すべきと一人腹を立てておりました。

 こんないやな話の反面、先ず地震直後に子供達の友達が大勢駆けつけてくれて手助けをしてくれ、、また近所で建物の下敷きになっている人たちの救出に行ってくれたりして本当によく活躍してくれました。長女の京都のボーイフレンドも懐中電灯、電池、軍手、食糧、飲料を持って動かぬ道路を10時間も掛けて夜遅くに避難所に駆けつけてくれました。彼を含め神戸近郊に住んでいる長女の友人達はその後もボランティア活動に走り回り、被災民達のお手伝いをしているという話を聞き、今時の若いモンを改めて見直し、見捨てたものではない、素晴らしいことだと感動したものです。

 話が逸れましたが、夕方になってひと先ず事務所の片づけを終えたところで六甲アイランドに向かい妹の家で一泊して翌22日午前4時起床で3家族12人が浜松に向けて大移動をしたのでした。(義弟のご両親は前日のうちに川西市の義弟の弟の方へ移動していました。)

 浜松は私の母のお里です。私たちの家族、母を含めて6人、妹の家族5人と大型のオームのピー1羽。姪の夫婦と3ヵ月の赤ちゃん。合計14人と1羽が母の実家と実家近くの母の亡妹の家に別れてお世話になることになりました。その後仕事の関係で義弟が翌23日に、さらに26日には妹の二女と妹の長女の夫がそれぞれ大阪方面の友人の家や会社の用意した宿泊施設に戻りました。その時点で残っている全員11人と1羽が浜松の実家1ヵ所にまとまり、引き続きお世話になることになりました。

 そしてその滞在中に、かくも多くの知人、友人、親戚、そしてお会いしたこともない親戚の親戚やその知人の方々から思いもかけぬ多大なご支援を頂きました。励ましや支援申し込みのお手紙、電話、ファックスを下さった方々。衣料品、下着靴下類、タオル、化粧品、薬、お米、おもち、果物、パン、調味料、乾物類、野菜、缶詰、ハム、嗜好品、ウイスキー、手作りケーキ、書籍等宅配便で送って下さった方々。過分なるお見舞い金を送って下さった方々。神戸の不在の自宅へ電車の動かない遠い所から歩いて水や食料品を届けに来て下さった方々。(この不在宅に来て頂いた方々には特に申し訳ないことでした)つながらない電話にダイヤルを回し続け公衆電話がつながりやすいと聞いてそこへ行ってまで連絡をつけようとして下さった方々。消息が分からないからと言って新聞に尋ね人の広告まで出して下さった方々。また、浜松までわざわざ駆けつけて下さった方々。学校を心配して子供たちを是非我が家に預けてとホームステイを申し出て下さった方々。関東のほうでもよかったらと住宅提供の申し入れをして下さった方々。全く絶望的で空きのないアパートを探して奔走して下さった方々。そして大勢で泊めて頂いた母の亡妹のご家族の方々と、この長期間に亘って今もまだお世話になり、その間不便をお掛けしているにも拘わらず不満の一言も言わずに快く面倒を見て下さっている母の実家の方々・・・
 家族を失い、家を失い、また家財を失って、その上頼れる先もなく、避難地で不便な生活を余儀なくされている被災者が大勢いるなかで、親戚、友人、知人の暖かいご支援を頂いて、温かいお風呂に入り、温かいご飯を食べて、暖かいお布団に寝ている私たちはなんと幸せなのだろうと人の情けと有り難さをつくづく感じさせられた1ヵ月間でした。

 もし今回の震災とは別に他の地域で私たちと同じように罹災した友人がいると仮定したとき、私はその人にどれだけの援助をしてあげることができるだろうと考えると、自分の考え方の甘さとその行動には多分恥じるものがあったであろうと、自分自身に愛想が尽きて悲しくなります。

 それほど今回は皆様から大きな励ましとご援助を頂いているにも拘わらずそれに値するお礼の言葉が見あたりません。ただただ感謝をし心よりお礼を申し上げる次第でございます。本当にありがとうございました。第1信で端折ってお伝えした18日以降の話と一部重複する部分があると思いますが、少し詳しく書いて見ました。

 つたない文章を乱筆で長々と書き綴り、さぞかし読みづらかった事と思います。お許し下さい。



 最後にーーーーーー

 神戸の灘地区に住む友人から電話で聞いた話をひとつ聞いて下さい。

 JR六甲道駅界隈の家賃の安い木造アパートの1階に入居しておられた神戸大学苦学生の話です。

 神戸大学の近くのこのアパートは今回の地震で倒壊してしまい、1階に入居していたこの学生さんは逃げ遅れて建物の下敷きとなってしまいました。しかしながら本人は元気で意識もしっかりしており、早速近所の人たちで励ましながら救出にかかりました。

 瓦礫の中から腕を抜き、脚まで出したのですが、折から出火した火の手が迫ってまいりました。慌てて近所の人たちはこの学生さんを一生懸命引っ張り出そうとするのですが、屋根の重みが乗っている太い梁に挟まれた肩の部分がどうしても抜けません。どんどん近づいて来て目の前まで迫った火に救助の人たちはどうすることもできず、最後には「ごめんな」と言ってその場を離れざるを得なかったと言います。

 極限の状態で意識のしっかりしたまま見捨てられた学生さん。そして見捨てざるを得なかった近所の人たちの心境は想像するに余りあると思います。

 この話を聞いて涙がとめどなく流れたのは私だけではなかったと思います。やはり今回の阪神大震災は想像を絶する生き地獄以外の何ものでもなかったと思います。

合掌