恵那旅行記 (5の3) 岩村城址と女城主

今日は、予測通り朝から雨模様です。

恵那峡、大井宿より257号線を南へ10km走ったところに城下町『岩村町』があります。

雨は小降りとなり、うまく行ったら着く頃には上がっているかもと期待していたのですが・・・

岩村町手前の小沢山トンネルを過ぎた途端、滝のような雨に見舞われ、車から降りるに降りられない状態となりました。 どうも警報が出ているようです。

車中から岩村城の太鼓櫓』を撮りましたが、あまりにも激しい雨でワイパーが拭き取った直後にシャッターを切ってもこの始末です。

しかたがないので、車に乗ったまま、町中をぐるっと一周しましたが、これではまったく話になりません。

日を改めるべく国道に戻り、町役場に差し掛かった頃、なんと今までの前も見えないような土砂降りが、小降りになりました。

気を取り直して、役場に車を駐めて観光を続ける事にしましたが、この後も断続的に滝雨と小雨の繰り返しで、ついていない旅となりました。




写真は、別方向から見た『太鼓櫓』です。


岩村城は日本三大山城の一つで、700年の歴史を誇ります。武田信玄織田信長らが攻め落としにかかっても落ちることのない難攻不落の山城でした。

しかし、明治の廃城令で、取り壊してしまったため、今はお城がありません。721mの高地にそびえるこの城は雨の前後に忽然と霧に姿を潜め、別名霧ヶ城とも言われています。

戦国時代、武田信玄の家臣 秋山信友がこの城を攻めました。当時、城主を亡くした未亡人(織田信長の叔母)が信長の五男御坊丸を養子にとり、女城主として岩村城を守っていました。

秋山は、この城がなかなか陥落しそうもない為、ひそかに計を巡らし、御坊丸に家督を嗣がせることを約束して結婚話を持ちかけました。女城主は家臣や領民を守ることの引き換えに政略結婚の道を選んだのです。

ところが、政略結婚とはいえ信長の叔母と結婚したことで、信玄に嫌われることを恐れた秋山信友は、御坊丸を人質として甲府へ送ってしまいました。

後に信長はこれを知り、岩村城へ大軍を送り攻略しましたが、矢張り城は落とせず持久戦に持ち込んで、5ヶ月もの兵糧攻めでやっと陥落しました。



.


岩村町は、屈辱的な政略結婚の道を選びながらも、家臣・領民を守った心優しい「女城主」に注目し、「女城主の里づくり」をキャッチフレーズにしています。




これは、200年の歴史ある地元の酒蔵、岩村醸造株式会社の清酒『女城主』です。

岩村町の各家庭には玄関に藍染めの暖簾と、岩村町ゆかりの儒学者 佐藤一斎の教えを説いた大きな書板がかかっています。

のれんには、その家の主婦の名前が染め抜かれてあり、これも「女城主の里づくり」の一環でしょう。

また、佐藤一斎は、日本の孔子とも言われる幕末の大儒学者です。 

NPO法人いわむら一斎塾では、この教えを分かりやすく紹介した絵本を作成しました。絵本のタイトルには「親子で読む言志四録」と副題がついており、「言志四録」から選んだ教えの一部を『おじいちゃんとぼく』という絵本にして、恵那市の小学生に配布しています。

さっそく私も一冊買ってきましたよ。1050円でした。