さようなら、そしてありがとう・・・仰木監督

私たち神戸に住んでいる者にとって仰木彬監督死去の悲しいニュースには残念で残念でたまりません。



オリックスの監督を辞められてまだ2ヶ月ちょっとしか経っていません。オリックスのチームがまだプレーオフに向けて戦っている8月頃から仰木監督自身も抗ガン剤の投与を続けながら指揮をとり、自身も壮絶な闘いをしていたと聞きます。

私たち神戸市民にとっては、あの阪神大震災の年、「がんばろう神戸」をスローガンにオリックスブルーウエーブを優勝に導き、私たちを如何に勇気
づけて貰ったか、そしてその翌年には日本一にまで
上りつめた偉業は今でも鮮明に甦ります。




今、仰木監督の顔を思い浮かべるとき、私たちにはいつもにこやかに笑っている顔しか目に浮かびません。

東筑高等学校から西鉄ライオンズに投手として入団し、当時の三原脩監督のもと二塁手として好守備で西鉄の黄金期を支えてきました。

三原監督は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていたといいますが「仰木と豊田泰光だけは遊びに制限をかけんといかん」と言わしめたほどの遊び人だったといいます。

その三原監督の「花は咲き時、咲かせ時」という言葉を実践して、仰木監督は野茂、吉井、イチロー田口壮長谷川滋利ら自らが育てた選手を彼らの旬の時期にメジャーリーグに旅立せ、しかもその全ての選手が仰木監督を師匠と公言しています。仰木監督の人間的魅力が伺われるところです。




アメリカへイチローを激励しに行った時には「パンチパーマ」と「サングラス」姿で「イチローがジャパニーズマフィアに脅されている」と騒ぎになったというエピソードもあります。

2004年には野球殿堂入りし、その記念パーティーには「全て俺が費用を出すから、必ずみんな出席してくれ。これは俺の生前葬だ。」と言っていたそうです。そのころからなにか覚悟のようなものが
あったのかも知れません。

「グラウンドで倒れたら本望だ」といっていた仰木監督、その時にはすでに体調の悪いのを無理して新生球団オリックスバッファローズを引き受けたのでしょうか? 

そして彼の唯一の心残りは「おまえの最後の花道はオレがつくってやる」と言って、1年半にわたって説得し続けた清原のオリックスへのラブコールの結果を自分の目で確認することができないことでしょうか? 男清原、追悼の意味も含めてオリックスに来る度量を持ってもらいたいものです。

いずれにせよ、素晴らしい人を失いました。生前に野球殿堂入りを果たしたことが、せめてもの慰みです。

ご冥福を心よりお祈りします。






[写真はオリックスバッファローズのHP,、読売テレビよりお借りしました]