火垂るの墓

私の住んでいる阪神地区には、むかし、小説家の野坂昭如氏が住んで(灘区)おられました。

戦時中の野坂昭如氏の半自伝的作品「火垂るの墓」(新潮文庫)はこの阪神地区(東灘区から西宮にかけて)のお話です。


[あらすじ]
14歳の清太と4歳の節子の幼い兄妹が戦争下の極限状態で、二人だけで力強く生き抜こうとする姿を、けなげに、切なく、そして、繊細に描いています。軍人の家に裕福に育った清太と節子は、病気だった母が死んだ後、西宮の親戚の家に身を寄せますが、巡洋艦に乗り組んだ父親とも音信不通で、自宅から持って行った食糧品が乏しくなるにつれ、だんだんと疎まれ、冷たい仕打ちを受けるようになります。清太は節子を連れてその家を出て、池のほとりの横穴壕に住むことになりましたが、幼い節子の体は、食べるものもなく日に日に弱っていきます。昭和20年8月、日本は終戦を迎えますが、やがて、節子は栄養失調のため衰弱して死に、清太もまた、国鉄三宮駅の構内で浮浪者たちとともに死んでいきます。



「一里塚」は、その小説の中で、清太の住む町として設定されています。

しかし、現在東灘区にその町名はなく、御影小学校の北東角に、車がやっと通れるほどの小さな「一里塚橋」が現存しているだけです。

その橋の架かっている東西の細い道は「西国街道」でした。


道路脇に道標が建っています。

この道標がないと、まさかこの細い道が、その昔都と朝鮮半島との玄関口であった九州の大宰府とを結ぶ一番重要な幹線道路としてにぎわいを見せた「西国街道」だとは思いもよらないでしょう。


アニメ映画「火垂るの墓」で、遠く焼け野原にポツンと建っている建物があります。

それがこの「御影公会堂」です。

昭和8年、地元白鶴酒造の創業者・嘉納治兵衛氏の寄附によって建てられました。

国道2号線沿い、石屋川と交わった角に建てられ
ているこの建物は当時としては非常に斬新でした。

全体から受ける外見は、船をイメージしており、屋
上にマストとブリッジを形どった円形休憩所、西側
には丸窓と水平に延びるデッキをイメージした白い
バルコニーがあります。





石屋川の右岸は「石屋川公園」になっていて、
その一角に、この「火垂るの墓」の碑があり
ます。


火垂るの墓」が書かれた背景やその舞台については、野元正氏のHP 『花四季彩 − ふるさと文学散歩4』 に詳しい記述があります。