白洲次郎と白洲正子展

「白洲次郎と白洲正子展」(2009年1月28日→2月9日)を大丸ミュージアム神戸で観てきました。

実は、恥ずかしながら、私は「白洲次郎」さんのことも、その奥さんである「白洲正子」さんのことも、なにも知りませんでした。



動乱の時代を確固たる価値観を持ちつづけ、互いの生き方を尊重し、見守りながら生きた白洲次郎さんと白洲正子さん。厳しく、そしてしなやかに激動の時代を美しく生きたふたりの生涯を紹介する展覧会が大丸ミュージアム神戸で開催されています。

本展は、「白洲次郎の生い立ちと自分の信じたプリンシプル(原則)」、「白洲正子の強い個性と美意識を貫いたコレクション」、「次郎と正子が武相荘に移り住んだ後の生活」の三部作で構成されています。


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兵庫県三田市の名家白洲家は神戸で綿貿易商として巨万の富を築きますが、白洲次郎(1902〜1985)は、神戸の隣町、芦屋市で白洲家の次男として生まれ育ち、神戸一中(現県立神戸高校)を卒業後、英国ケンブリッジ大学に留学します。

留学中に、仲間とグループで群れて行動することが苦手だった次郎は、性格の似たロビン(7代目ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング)と親しくなり終生の友となります。

当時この二人は、ブガッティやベントレーを乗り回し、「オイリー・ボーイ」のニックネームを持つほどのカー・マニアでした。

次郎はこの留学中に英語力と英国風マナーを習得し、ダンディなジェントルマンへと変身していきます。



次郎の愛用のブランドは、ダンヒル、ロレックス、ルイ・ヴィトンからエルメスにまで及び、会場にはそれらとともにヘンリー・プールのスーツやヘンリー・ヒースのシルクハット、ベンソンの懐中時計、ルイ・ヴィトンのトランクなどが展示されています。

白洲次郎は、「いいものを使えばホテルでの扱いが違うよ」と言って、後に娘の桂子(かつらこ)がパリに留学する時にルイ・ヴィトンのトランクを持たせていますが、このことからも彼の信じたプリンシプルの一環が覗えます。

英国留学中の昭和3年(1928年)、父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国して日本の英字新聞社に就職します。

その年、伯爵・樺山愛輔の娘、正子と知り合って、翌1929年、27歳で結婚。

その後、日本水産の前身である日本食糧工業の取締役となりますが、海外に赴くことが多かった次郎は、当時駐イギリス特命全権大使であった吉田茂との面識を得、終戦後は、吉田茂の側近としてGHQとの折衝に奔走、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行することになります。

この時、首席全権であった吉田茂首相の受諾演説の原稿に、奄美諸島琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を追加させ、更に原稿を英語から毛筆の日本語に書き直したというエピソードもあり、GHQに「従順ならざる唯一の日本人」とまで言わしめたと言います。

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一方、明治維新の立役者である樺山伯爵家の次女として東京で生まれた白洲正子(1910〜1998)は、幼少のころから能をたしなみ古典芸能に通じて育ち、14歳でアメリカに留学しました。

女性で初めて女人禁制の能舞台に立ち、能を舞った人物としても知られています。

帰国後、18歳のときに、次郎(26歳)と出会い、お互いに一目惚れ、翌年19歳で白洲次郎と結婚します。

その後、優れた審美眼を持つ正子は、ジャンルを問わず美しいものに注がれ、染め、織り、陶磁器、木工など様々な分野の職人とその技を愛しました。

戦後は骨董蒐集や文筆活動など生涯を通じて、権威や世評にとらわれない独自の「美」の世界を求め続けた正子は、『美しい骨董を見ることは、そして使うことは、自分を豊かにすることだ』と言って、自らの美意識を貫き通します。

正子が銀座で経営していた染織工芸店「こうげい」では、そこで見いだされ、技を磨き、のちに人間国宝となった職人や、世界の頂点に立つファッションデザイナーなど多くの匠が育ち、世に送り出されたということです。

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白洲次郎は、吉田茂の退陣後、実業界に転じ、東北電力会長や、創設間もない日本テレビ等の役員や顧問を務めながら、戦後の日本の奇跡的な経済復興の立役者としても活躍します。



また1942年(昭和17年)には、日本の敗戦を予測して、鶴川村能ヶ谷(現町田市)にある養蚕農家の面影を残す茅葺きの古家を買いとり、これに「武相荘」と名づけて移住しました。

武相荘(ぶあいそう)」の名前の由来は、相模と武蔵の境にあることに因んでいるそうですが、「無愛想」にもかけて名付けられたとのことです。自らを「カントリージェントルマン」と称し、仕事のみに明け暮れるのでなく、田舎暮らしを楽しむ優雅さも持ち合わせていたそうです。

「旧白洲邸 武相荘」は、昭和の激動期をその中心に身を置きながら生きてきた白洲次郎の安息の地として、今も変わらぬ姿を見せてくれています。

大丸ミュージアム神戸では、日本の敗戦を見越してふたりが移り住んだこの鶴川の武相荘(旧白洲邸)での部屋と食卓の再現を通して、その暮らしぶりも紹介しています。


80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じていた次郎。そして、日本人で初めてジーンズを履いた男と言われる次郎ですが、昭和60年(1985年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し、同年11月28日死去、83歳で没しました。

夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してありました。


生前、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられた白洲次郎は、『夫婦円満の秘訣は、一緒にいないことだよ』と言っています。

そしてその13年後、1998年に正子が没します。自分の眼で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらず、次郎と同様、葬式はせず、戒名もありません。

正子の人気は死後もなお高く、再編集の著作などが出されており、2001年には『白洲正子全集』全14巻(新潮社)なども刊行されています。

互いの生き方を尊重し、見守りながら生きた次郎と正子。確固たる価値観を持ちつづけ、厳しく、そしてしなやかに激動の時代を生きたふたりの生涯を、この「白洲次郎白洲正子展」で学びました。


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昨年(2008年)には宝塚歌劇団宙組(そらぐみ)が、『黎明の風』という題名で次郎の波乱の生涯を扱った公演を組みました。



また今年(2009年)はNHKドラマスペシャル『白洲次郎』が全3回にわたってオン・エアされます。(第1回2月28日 「カントリージェントルマンへの道」、第2回目3月7日 「1945年のクリスマス」、最終回2009年中(放送日未定) 「ラスプーチンの涙」)

今回、大丸神戸店6階紳士服売り場「ヘンリープール」コーナーでも、ミュージアムの展覧会と併行して白洲次郎がヘンリープールに残した「勘定台帳」の複製や英国のヘンリープール アーカイブコレクションから貸し出されたドレスコートなどが1月28日から2月17日まで特別展示されています。